大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

京都地方裁判所 昭和44年(わ)356号 判決

主文

1  被告人渡辺哲雄、同垣内俊昭、同松岡敬祐、同星野征光を各懲役一年に処する。

右各被告人に対しこの裁判確定の日からいずれも二年間右各刑の執行を猶予する。

2  被告人穴川大三郎、同松村憲太郎を各懲役六月に処する。

右各被告人に対し、この裁判確定の日からいずれも一年間右各刑の執行を猶予する。

3  被告人奥宮祐正を懲役三月に処する。

同被告人に対しこの裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

4  被告人岡本文雄、同木野村睦、同平田陽一を各罰金二五〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五〇〇円を一日に換算した期間右各被告人を労役場に留置する。

5  訴訟費用は別表三のとおり各被告人らの負担とする。

6  被告人岩元則幸は無罪。

理由

(本件紛争の背景、経緯等)

一  本件の背景

京都府立医科大学(以下、府立医大という。)における本件一連の紛争の背景、原因は我国の医科大学及び大学医学部に共通するものと府立医大特有のものとに大別できる。

まず前者についていうと、従来(昭和四三年の医師法改正前)医師になろうとする者は、大学教養(進学)課程二年終了後、四年間の専門課程に進み、それを修了卒業して、大学付属病院又は厚生省指定の病院、保健所等で一年間の実地修練(いわゆるインターン)を経て医師国家試験の受験資格が与えられ、この試験に合格して初めて医師の資格が与えられたのであるが、右インターン制度についてはかねてからその身分、経済的保障の不安定、指導態勢の不備等その欠陥が強く指摘され、遂に昭和四三年五月の医師法改正により、インターン制度は廃止され、これに代って大学専門課程を終了した者は直ちに国家試験の受験資格を得、卒後研修については同試験に合格後大学医学部もしくは大学附置の研究所の附属病院又は厚生大臣の指定する病院において二年間以上臨床研修に努めるものとし、当該病院長は右臨床研修を行った者があるときは、その旨厚生大臣に報告することとするいわゆる報告医制度が採用されるに至った。

ところでこのように医師国家試験に合格すれば医師の資格は得られるものの、それだけでは医師として十分な経験、資質を具備したとは認められないため、合格者の大半は、その後における臨床経験の積み上げによる修練研修や学位の取得をめざし、無給副手として大学に残るか大学院博士課程に進学するかいずれかの道を進むのが通例であり、そして日本の医科大学、大学医学部においては臨床系、基礎系各学科毎に一又は複数の講座が置かれ、各講座には教授、助教授、講師等有給職員が置かれる外、これに無給副手及び大学院生が加わり、これらによって一つの医師集団、組織たる医局を構成するといういわゆる医局講座制が伝統的に採用されてきたが、この医局制度についてはかねがねあまりに封建的であるとの批判もあり、更に無給副手は学位を取得するまで相当長期間を要するところ、無給であるがために、この間有給職員と同じように病院の診療行為に従事しながら経済的に甚だ不安定な地位に置かれるということで、医師の卒後研修、養成制度については右報告医制度採用後もなお多くの問題を残していた。こうした中で、予てから主としてインターン制度撤廃を主眼として、昭和四一年に医学部卒業者の団体である昭和四一年度青年医師連合(以下、四一青医連という。)が結成され、各医科大学又は大学医学部を支部とし、以後同様に卒業年次を冠して四二青医連、四三青医連、四四青医連と順次結成され、これら青医連は、特に前記医師法改正後は、医局制度に批判の目を向け、自主的卒後研修すなわち特定の医局に所属せず、予め自主的に定めたスケジュール、カリキュラムに従い、複数の各科を廻って研修(ローテート)する方式を強く求め、青医連の公認ということも主張していたが、府立医大においても同様な状況にあった。

次に府立医大特有のものとしては、仮進制の問題、土地問題、臨床研究棟建築案の問題、教養課程カリキュラム充実の問題等があった。

(イ)  仮進制の問題及び教養課程カリキュラム充実の問題

従前府立医大では、教養課程終了に必要な単位が不足していても、一四単位以内なら専門課程に進学でき、専門課程中にその不足単位をとればよいという仮進学制度(以下、仮進制という。)をとってきたが、それが専門課程の勉強に悪影響を及ぼすということで、昭和四〇年度入学者からこれを廃し、教養課程の単位がとれない者は専門課程に進学できないという留年制度を採用した。ところがこれがため昭和四二年春には三五名、翌四三年春には四一名という大量の留年者が出ることになり、学生側は、このように留年者が多いのは、教養課程の単位数が他の大学よりも多いのにそれを減らすことなく、漫然と留年制度をとったことが原因であると大学側を批判するに至り、これに対し昭和四三年一一月二八日の教授会では従来の留年制度を改め、不足単位が四単位以内なら進学できるという四単位仮進制を採用することとし、同時にカリキュラム協議会を設けて、教育内容についても学生代表と共に検討し合うことを呼びかけたが、学生側はなお旧来の仮進制度の全面的復活を要求し、仮進制度の廃止や手直しが教授会により一方的に行われ、これにより生じた混乱に対しても何ら責任がとられていないとして教授会を批判すると共に、カリキュラム協議会についても教授会の単なる諮問機関では意味がなく、教授会の決定に対し拒否権を与えよと主張するに至った。

(ロ)  土地問題

府立医大教養課程の校舎は、京都市北区大将軍西鷹司町一三番地にあって花園分校と呼ばれていたが、同分校の傍に元精神科病棟の建っていた約三〇〇〇坪の土地(以下、花園分校土地という。)と立命館大学南側にもと生理、薬理などの基礎校舎が建っていた約八〇〇坪の土地(以下、西構土地という。)があってこれらはいずれも府立医大が使用していたものであるが、府立医大当局は、その敷地内に精神科病棟と基礎二号館が新築される代りとして、その使用権を昭和四〇年一〇月頃京都府に返還した。しかしながらもともと西構の土地の半分は戦時中学友会より大学に寄附されたものであり、大学側としては、将来大学側で必要となったときは、再びこれらの土地を使わせてもらえるとの期待を抱いており、学生側にも西構の土地には学生の厚生施設や学友会館を建てたい旨発表していたところ、その土地の返還を受けた京都府は西構の土地には府立文化芸術会館を、前記花園分校土地には府立体育館を建て、府立医大とは無関係なものとなってしまったので、学生側は教授会の姿勢を責めると共に府の態度を非難するようになった。

(ハ)  臨床研究棟建築問題

府立医大では第四期工事として臨床研究棟建築を計画し、その建築設計費が昭和四三年一一月の府の補正予算に急遽計上されたので、教授会としては、助教授講師団(以下、助講団という。)、助手副手団(以下、助副団という。)、職員組合等各層の意見も聞いてその建築計画を決定することになったが、学生側は将来自分達とも密接な関係のある問題を、自分達の意見も聞かず教授会が一方的に決めようとしているとして、右建築案の白紙撤回、学生参加の下における計画立案を要求するに至った。

二  紛争の経過

昭和四四年一月一八日、当時の学生自治会から大学側に対して初めて臨床研究棟建築案白紙撤回を要求する大衆団交の申入れがあったが、同月三一日これに対し教授会は、大衆団交なるものは学生が一方的に新授側を裁くもの、教授会は裁かれるものという形で進められ、時間の制限もなく到底正常な話し合いとはいえないのでこれを拒否する旨の見解を明らかにした。そこで学生側は、まず二月三日、花園分校(一、二回生)が、(1)同数の学生と教授からなる最高の決定権をもったカリキュラム協議会の設置、(2)新仮進制の白紙撤回、(3)花園分院跡地問題についての教授会の責任追求といった三点を掲げて無期限ストに入り、次いで同月八日、全学学生大会が開かれ、(1)大衆団交を全教授と学生、青医連医師、副手の参加の下に別に定める条件で実現させる、(2)全教授の自己批判要求、(3)臨床学舎建筑案白紙撤回、(4)青医連公認、(5)新仮進制白紙撤回、(6)青医連、学生自治会の拒否権要求の六項目を要求するとしてスト決議がなされ、更に同月一〇日には全学共斗会議が結成されて同日から全学無期限ストライキに突入した。そして同日の教授会乱入、後記監禁事件等を経て、全共斗の戦術は大学の建造物をバリケードで封鎖する戦術へとエスカレートし、同年三月上旬までの間に大学本館、記念講堂、学生課、分校事務室、複数名の教授室が次々と封鎖されるに至った。これに対応し大学当局は機動隊の導入を要請し、三月二一日と二二日の二回にわたり学内に機動隊が入り、当局は学内秩序回復のため同月二二日から八月末日まで休校すると共に有給職員を除く学生等の立入を禁止したが、同年七月二三日に至り、午前七時から午後七時までの間に限り学生等の学内立入禁止が解除され、同年九月一日から大学は再び開講され、事態は漸く平静に戻っていった。

なお本件当時、被告人渡辺は府立医大六回生、同垣内は同二回生、同奥宮は同大学研修生、同松岡は同四回生、同星野は同六回生、同岩元は同四回生、同穴川は同二回生、同松村は同四回生、同岡本は同二回生、同木野村は滋恵医大生、同平田は府立医大二回生であった。

(罪となるべき事実)

第一  被告人渡辺、同垣内、同奥宮、同松岡、同星野は、他多数の学生(研修生を含む。以下同じ。)と共にかねてより教授会に対し大衆団交の開催を要求していたものであるところ、昭和四四年二月一〇日午後三時二七分頃、学生約一〇〇人と共に当日大学本館三階会議室で行われていた教授会に乱入し、教授達を取り囲んで室外に出ることを許さず、そのまま翌一一日午前八時頃まで教授側を土地問題、臨床研究棟建築案問題で追及し、決着のつかないままその頃被告人星野において二五時間後の団交の再開を申し入れたところ、教授側もこれを黙認する形で散会となったが、その後教授側は討議内容が臨床研究棟建築案白紙撤回問題という全学的問題に関わり、三階会議室は狭小ということで、大学記念ホール(以下、講堂という。)で全学集会を開くことを決め、同月一二日午前八時五〇分頃この旨学生側に通知して吉村寿人(当時六二歳)はじめ約三五名の教授が同日午前九時頃から講堂内に入り学生らを待機する態勢に入ったが、学生側は全学集会形式に反対して教授らを講堂から三階会議室に移動させ会議室において大衆団交に応じさせようとし、同日頃から施錠されていなかった北側出入口扉内側にコンクリート製車止め数個を置く他、外側にはストレッチャーを置いて閉鎖し、西側出入口には監視の学生を置いて教授の出入りをチェックするようになり、一方教授側も講堂における全学集会という方式を主張して譲らず一二日、一三日、一四日と講堂内に泊まりこむ状態が続いたが、一五日朝に至って同教授らは遂に講堂内における全学集会の開催を断念し、学長吉村寿人はその頃講堂周辺にいる学生に対し退去命令を発した後、同日正午頃、その頃まで講堂内に残っていた別表一掲記の教授らと共に一団となって講堂から引揚げようとしたところ、ここにおいて被告人渡辺、同垣内、同奥宮、同松岡、同星野は、他多数の学生と共謀の上、前記の目的を遂げるため吉村寿人をはじめとする右教授団二二名を監禁することを企て、その頃被告人星野、同松岡らにおいて他多数の学生と共に西出入口付近に立ちはだかって脱出を阻止するとともに、その頃から同日午後三時三〇分ころまでの間、前後三回にわたり、教授らが北出入口の扉を開けて脱出しようとするや、被告人奥宮らにおいて外側に置いてあったストレッチャーを押し返すなどしてこれを阻止し、翌一六日午後五時ころ、同教授らが右出入口から同じく脱出しようとした際にも、右出入口扉外側把手に板を横にさしわたし、縄でくくりつけるなどしてこれを阻止し、更に同日午後九時過ぎころ、助教授講師団の「教授会は三階へ上って下さい。さもなければ我々は総辞職する。」旨の申し入れにより、同日午後一〇時過ぎ頃同教授らが止む無く三階会議室へ移動するや、他多数の学生と共に同所において同教授らを取り囲んだ上、被告人星野らにおいて大衆団交に応じること及び約束を一方的に被ったことを自己批判せよなどと執拗に迫り、翌一七日午前四時三〇分頃学生部長佐野豊らが団交を打切り会議室を出ようとするや、会議室出入口において人垣を作って阻止するなどして同月一七日午前七時三〇分頃までの間(但し、その以前に講堂ないし三階会議室より出た教授については別表一記載のとおりそれまでの間)、講堂、会議室において別表一記載のとおり学長吉村寿人以下の教授らの行動の自由を束縛して脱出を不能ならしめ、もって同教授らを不法に監禁し

第二  被告人垣内、同星野は、他の学生数名と共に、同月二六日午後二時三〇分頃、府立医大附属病院内事務部長室前廊下において、同病院長増田正典(当時五三歳)を取囲み、同人に対し、右監禁事件以降大学側が大衆団交に応じないこと及びその頃大学当局が全共斗の闘争に対する大学側の見解を訴えた印刷物を学生宛に直接郵送したことを難詰し、「この責任を徹底的に追求する」などといって、右学生ら数名と共謀の上、これらの者とともに、右増田の両脇から腕を差し込んでその両腕を抱え、背中、腰を押すなどして同人の身体の自由を奪い、同所から約七五メートル離れた大学本館ポーチ前までの間、同人を強いて連行し、もって同人を不法に逮捕し

第三  被告人渡辺、同垣内、同松岡、同星野は、同年三月一〇日午後五時頃、他約五〇名の学生と共に封鎖の目的をもって学長吉村寿人の管理及び看守に係る府立医大二号館一階学生課事務室に至り、「開けろ、開けろ」などと怒号しながら同室東出入口の扉を押し開ける等して同室内に押し入り、もって故なく右学生課事務室に侵入し

第四  被告人垣内、同松岡は府立医大花園分校の封鎖を企て、学生約三〇名と共謀のうえ、これらの者と共に同年三月一七日午後三時五〇分ころ、京都市北区大将軍西鷹司町一三番地所在の学長吉村寿人の管理及び看守に係る右花園分校事務室入口に至り、同室で執務中の同分校進学係長鞆岡勇らに対し、「ここを封鎖するから出て行け」などと怒号しながら、右入口から同室に押し入り、もって故なく同事務室に侵入し、午後五時頃、同事務室に通ずる同校舎一階正面玄関出入口及び同事務室廊下等の窓に板、トタン板などを五寸釘で打ちつけ有刺鉄線を張りめぐらしたほか、事務室窓側や廊下数ヶ所に机、椅子、ロッカーなどを積み重ねて、同室の採光及び出入りをともに不能にして右事務室の使用を不可能ならしめ、もって威力を用いて右鞆岡らの業務を妨害するとともに、右建造物を損壊し

第五  被告人岡本、同木野村、同平田は、同月二八日午後二時三〇分ころ前記府立医大付属病院の玄関ホール内において、他学生ら約四〇名と共に、大学当局側が同月二一、二二日の両日機動隊を導入したことに抗議するとともに、吉村学長に対し面会や釈明を要求して坐り込み、同日午後三時ころ、同病院建物の管理権を有する学長吉村寿人から同大学敷地外へ退去を要求されたにも拘らず、右退去要求を無視し、同日午後三時四〇分ころまでの間、右附属病院玄関ホールに滞留を続け、もって故なく同所から退去せず

第六  前記のとおり府立医大では同年三月二二日から休校とされるとともに学生らの学内立入りは禁止され、同年七月二三日に至って午前七時から午後七時までの間に限り、右学内立入禁止が解除されたのであるが、被告人星野は他学生十数名と共に、右学内立入禁止の全面解除を要求して、同月二四日午後七時ころ同大学基礎医学二号館玄関出入口内に立入り

一 同日午後七時一〇分ころ、右二号館玄関出入口内において、同大学学生部長代行藤田晢也から再三にわたり同大学構内から退去することを要求されたにも拘らず、同八時ころまでの間右玄関出入口付近に滞留を続け、もって故なく退去せず

二 同日午後七時二〇分ころ、同所において、前記のとおり滞留を続ける被告人星野らに対して退去要求を行うなど同建物の管理にあたっていた同大学助教授上田潔(当時四五歳)、同大学学生課学生係主査沢山隆重(当時四〇歳)に対し、ヘルメットで頭部を殴打し、腹部を足蹴りするなどの暴行を加え、もって同人らの職務の執行を妨害し

第七  被告人渡辺、同垣内、同松岡、同穴川、同松村は、全共斗において、同年九月開講に反対して、同年八月六日午後二時四〇分頃から行った傘下学生約八〇名による学内デモ行進に参加したものであるところ、他多数の学生と共に大学側職員の制止を押しきって病院内を行進しようと企て、同日午後三時頃被告人渡辺、同垣内において他数名のデモ隊員らと共に、同大学附属病院玄関付近において、同大学学長代行丸本晋の職務命令により右デモ隊の同大学建物内への侵入を制止する職務に従事していた同大学附属病院収納課課長補佐近藤勲(当時四四歳)、同医事課長今西馨(当時四三歳)ら数名の職員に対し、交々手拳で同人らの顔面、頭部等を殴打し、足蹴りする等の暴行を加え、更に被告人松岡、同穴川、同松村は、右垣内、渡辺らに呼応して、他約二〇名の学生らと共に同日午後三時一〇分頃、同大学臨床研究棟玄関付近において、前同様の職務に従事していた同大学事務局長三島直介(当時四七歳)ら多数の同大学職員に対し、被告人垣内の号令を合図に数人一組となって一斉に襲いかかり、交々同人らの顔面、頭部、腹部、胸部等を手拳で殴打し、足蹴りする等の暴行を加え、以って互いに共同して右三島直介他別表記載一七名の前記職務の執行を妨害し、且同人等に対し夫々別表(二)記載の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)《省略》

(各訴因に関する弁護人並びに検察官の主張に対する判断)

一  監禁罪について

1  弁護人は判示第一の事実につき、教授らは昭和四四年二月一二日(以下、昭和四四年中の月日については年を略し月日のみ掲げる。)から同月一六日夜まで全学集会開催のため自主的に講堂内に滞留していたのであり、教授らのなした脱出行動というものも機動隊導の口実のための仮装行為にすぎず、その後三階会議室に移動したのもそこにおける大衆団交もまさに自発的に応じたものであって、被告人らに監禁罪は成立しない旨主張する。

よって、以下検討するに、前掲証拠によると、以下の事実が認められる。

(一)  前判示のとおり、一月一八日学生側より大学当局に対し初めて大衆団交の申入れがあり、同月三一日教授会はこれを拒否する旨の見解を明らかにしていたが、その後学生側は二月八日前記六項目を要求して同月一〇日から全学無期限ストライキに突入する旨学生大会で決議したので、教授会側は右六項目要求につき、同月一〇日の教授会で検討することとし、その回答を同日午後三時三〇分学生側に示すことにしていたところ、本件被告人らを含む学生約一〇〇人は、同日午後三時二七分ころ、本館三階会議室において開催されていた教授会(教授約二〇名)になだれ込み、教授らを取り囲んだ上、翌朝午前八時頃に至るまで大衆団交の承認、土地問題、臨床学舎建築案問題等につき教授らを追求し、自己批判や確認書の署名を求め、決着のつかないままその頃被告人星野において「二五時間休憩しよう。明日朝午前九時ここで会おう」と提案したところ疲労していた教授達はこれに別段の反論を加えないまま一たん散会した。

(二)  同日夕方吉村学長ら管理職と臨床部長との合同会議が開かれ、臨床学舎建築案問題について論議されたが、その際それまで建築案に消極的と伝えられていた助教授講師団(以下、助講団という。)、助手副手団(以下、助副団)が実は共に学生の主張するような建築案白紙撤回には反対の意向であることが判明し、職員組合も白紙撤回には反対との意向を確認したので、同会議において白紙撤回に応じないことを決定し、この考えを学生のみならず一般教職員にも聞かせるべきであり、かつそれには三階会議室は狭小で学生らに取り囲まれた場合には肉体的精神的圧迫が甚しいことから、場所を講堂に移し全学集会を開催するのが相当と決し翌一二日午前八時五〇分頃佐野学生部長がこの旨を当時の自治会執行委員長被告人松岡に伝え、吉村学長はじめ教授団約三五名は同日午前九時一〇分ころから講堂内に入り学生らを迎えるべく待機した。

(三)  しかし、被告人星野らその他学生は「約束を守れ。三階会議室でなければならない」と主張してこれに応ぜず「講堂の扉が開かれているのは教授側がいつでも逃げ出すつもりだろう。」などといって飯塚教授をして職員に指示させ、講堂北側出入口及び西出入口を除きその余の非常口扉、南側出入口扉を悉く施錠せしめ更に教授団を講堂から三階会議室へ移動させるべく、講堂内にデモをかけ、「教授は三階へ上れ」等とシュプレヒコールした外、教授らが勝手に講堂外の場所に出ないよう、北側出入口扉の内側には重さ約三、四〇キログラムのコンクリートブロック車止めを数個置き外側にはストレッチャー(患者運搬車)一台を並べて閉鎖し、西出入口にはピンポン台や机を置いて通行口を狭くした上監視の学生を置き、教授らの出入りをチェックするに至り、当初は比較的自由に所用のある教授特に臨床系の教授の出入りが認められていたが、一三日夜学生の見張りが手薄な間隙をぬって吉村学長を含め半数以上の教授が講堂外に出るというような事が起こってからは(これら教授はやがて全員呼び返された。)監視は厳しくなり、外出の教授に見張り役の学生がついたり、人数、時間の制限がされ、特に学長吉村寿人、病院長増田正典、学生部長佐野豊ら管理職の外出は強く拒まれた。

(四)  このような状態のまま教授側も講堂を主張して譲らず、一二日、一三日と講堂内に毛布を持ち込んで泊まり込んだが、一四日夜に至るも学生側に講堂内へ入る動きが認められないので、教授団側はその時点において「非人道的な大衆団交には応じられない。明朝九時までに学生側が会談の為に現われないときは今回の講堂における会談を諦らめる。教授会軟禁状態を二月一五日正午までに解くことを要望する」旨を文書として学生側に知らせる旨決議し、翌一五日午前八時頃その文書(「学生自治会の諸君へ」と題したもの)を学生側に配布した(但し、配布の方法が大学構内の数ヵ所に右文書を積み上げただけで直接学生側に手渡すことをしなかったため、自治会執行部が右文書の存在を知ったのは二月一五日夕方であった。)。

(五)  そして一五日午前九時以降教授団側は全学集会の開催を諦め、一〇時五〇分ころ、佐野学生部長は学長の指示を受けて携帯用マイクで講堂二階部分南側西端の窓から講堂付近の学生に対し、「只今学長から学生に対して退去命令が出された。本館二階三階を占拠している学生、講堂周辺にいる学生は直ちに退去せよ」と放送し、更に藤田晢也、橋本勇教授も同様の放送を繰り返したところ被告人渡辺は構内に据付けてあったスピーカーで「教授会は記念講堂から逃亡しようとしている。我々は彼等を絶対記念講堂から出してはならない」等と放送した。

(六)  一方一四日夜頃から講堂内の教授団の間では機動隊導入の話が持ち出され、その頃一たんは決議されたものの、一五日朝に至り、外部との連絡役をしていた中村文雄、丸木晋、徳田源市教授から「講堂内の教授が先づ自力で脱出を試みてもらいたい。失敗すれば機動隊導入を考慮する」との連絡があり、教授側は右外部にいる教授らと打合わせの上同日正午、一時半、三時半、五時に脱出行動を起こすことを決めた。

(七)  そこで、同日正午頃吉村学長をはじめとする教授団は、脱出しようとして一団となって講堂ロビーに出たところ、そこにいた被告人星野は携帯マイクで「教授達は逃亡しようとしている。我々は全力を挙げて阻止しよう。教授達は三階以外には行くところはないんだ」等と他学生に呼びかけ、他多数の学生と共に西出入口に立ちはだかったため、吉村学長は通告書を出し携帯マイクで「記念会館において教授の自由を束縛し、退去命令にも従わないことは言語道断である。再度厳重に警告する。退去せよ」と読み上げ、これを付近にいた被告人松岡に手渡そうとしたところ、これを横にいた被告人星野がとりあげ「こんなもんなんじゃ」と言って破り捨てた。次いで教授団はその頃及び午後一時三〇分頃、午後三時三〇分頃の三回にわたり北側出入口から脱出しようとしたが、前判示のとおり被告人奥宮ら多数の学生によりストレッチャーを押し返されるなど阻止されたので、吉村学長らは午後五時の脱出行動を断念し、同学長はマイクで講堂近辺の学生に「学生は退去しなさい。断固たる措置をとる。不幸な事態に陥らないようにしてください」と警告した。

(八)  次いで教授団は翌一六日午後五時頃も脱出を試み、この間外部からもこれに呼応して教員及び事務職員合計三〇〇名以上が講堂周辺に集まり、マイクで学生側に封鎖を解くように訴えたのであるが、前同様にして学生側に阻止され、脱出はできなかった。

(九)  一方一六日午前九時ころから助講会の岸田綱太郎助教授が被告渡辺ら学生側代表と話し合い、「教授会は約束違反をしたことにつき謝罪する。次の会合の日時場所を決めて直ちに解散する。」との線で斡旋することを提案し、学生側もこれに同意したので、岸田、上田助教授ら五名が同日午後九時ころ右趣旨を教授団に伝えるべく講堂内に入り「教授会は三階に上ってほしい。上らないなら全員辞職する」旨言い、更に右の理由を述べようとしたところ、被告人星野らに「それ以外の事はしゃべらない約束ではないか」と阻止され、直ちに講堂外へ退去させられたので、吉村学長ら教授団はその経緯を質すこともできず、その真意を測りかねたが、一時間余りの協議の後同日午後一〇時ころ本館三階会議室へ移動することとし、その頃教授らは全員一列になって、その両側に多数の学生らが人垣を作る中を本館三階会議室へ向った。

(一〇)  三階会議室は出入口が東側に一つだけあったが、教授側が南側に、学生側がこれに相対峙するように着席し、その周囲を学生、助講団、事務職員等百数十名余りが立ったり座ったりしていた。そしてまず被告人星野において大衆団交の開催を宣言し、吉村学長が大衆団交は認めないとして激しい言い合いがあった後、被告人星野は予め用意していた「団交再開の約束を一方的に破棄したことを深刻に自己批判し、今後このような背信行為はしないことを確認する」旨の確認書に署名を求めたが、増田病院長らは「学生の方が二月一〇日定められた時刻より数分早く教授会に乱入したことを自己批判すれば自分の方も自己批判してもよい」と応酬し、午後一一時四〇分頃吉村学長が倒れて室外に出、その場で教授会が開かれ、増田病院長が学長職務代行総括に選ばれて後も同様な応酬が続き、一七日午前三時頃吉村学長が再び入室して、次の会を大衆団体協議会とし、二日後の午後一時から、場所はここでもよいが場合によっては講堂とする、という具体的な提案をする場面もあったがすぐに退室したので話し合いはまとまらず依然前同様の応酬が続き、午前四時三〇分頃吉村学長から増田病院長宛に「学生達に教授会乱入について謝罪を求めることをやめられたい」旨の連絡文が入ったのでここにおいて増田病院長は確認書に署名し、引続き藤田教授を除くその頃までそこにいた全教授がそれに署名した。

ところがその後被告人星野は更に一二日以降の教授団側の講堂内の滞留が監葉ではないこと、学生を処分しないこと等の確認書にも署名を求め、増田病院長が拒否するや「それでは残念ながら大衆団交を終ることは出来ない」と言ったので、佐野学生部長は脱出の時期と判断し、全教授に「出よう」と言って出入口に向かったが、被告人星野は椅子の上に立ち、大声で「待て、逃がすな。ポケットに手を入れろ」と怒鳴り、学生多数が出入口に密集し立ちはだかったので脱出は困難となり同学生部長らはやむなく再び席についたが、その後被告人星野は「監禁問題等は後に回す。次の大衆団交の日時場所を決めよう。」と提案し、これに対して増田病院長は「大衆団体協議会ならよいが、大衆団交なら拒否する。」と応酬し、更に「体力の限界に来ている。入口を開けろ。交渉を打切る」と何回も言ったが、学生側はこれに応じず、午前七時過ぎ能勢教授、佐野学生部長が相次いで倒れ、午前七時三〇分には増田病院長も倒れて散会となった。

2  以上の事実経過と教授らの当公判廷における講堂内及び三階会議室内での滞留が何ら自発的なものでなく、被告人ら学生側の実力により監禁されたものであるとの供述並びに最終時には北側出入口扉の内側把手がとれてしまったという事実等前記講堂内及び三階会議室内での脱出行動に照らし、教授らの講堂内及び三階会議室内での滞留が何ら自発的なものでなかったことは明らかである。

もっとも弁護人は、一五日正午以降も従前と同じく何人もの教授が所用のため講堂外に出、再び自発的に戻っており、一五日正午以降とそれ以前とで講堂内外の状況は何ら変っておらず、各教授が講堂外に出ようと思えば極めて容易に出られたと主張し、これをもって被告人らに監禁罪が成立しないことの一つの根拠としているのであるが、成程本件証拠によると、二月一五日正午以降、宮崎正夫教授は二回心電図をとるため(一五日午後四時頃と一六日同時刻頃各一、二時間。前者については見張りの学生三人が講堂へ戻るまでついてきた。)三谷一雄教授は二回危篤の父見舞いのため(一五日夜九時三〇分頃と一六日夜七時三〇分頃各数時間)、藤喜好文教授は一回家から電話がかかってきたため(一四日か一五日の夜)、橋本勇教授は一回術後患者診療のため(一四日か一五日の夕方)、長花操教授は一回郵便物の整理のため(一六日)、三宅清雄教授は一回町の医者が持ってきた標本を見るため(一六日午後四時三〇分頃から同七時三〇分頃までの間)、小田教授は数回診療活動のため(一五、一六日の両日にわたって)それぞれ講堂外に出、その後再び講堂内に戻っていることが認められる。(従ってこれらの教授については講堂外に出た以降(但し、宮崎教授については二回目の外出以降)は監禁の対象から外すべきである。)然しながら学生らがそのように数人の教授の外出を許したのも、管理職以外の教授については一時的に数人欠けても大衆団交の再開に支障はないと考えたからであると考えられ、それ以上に相当数の教授達がまとまって脱出の希望を述べても到底容れられる状況になかったことは前記一五日正午以降の一連の経緯から明らかであり、しかも被告人ら学生側は教授会の中心メンバーたる吉村学長、増田病院長、佐野学生部長については絶対に出さない意思を明らかにしているのであって、その外の教授達については、成程個人的に出ようと思えばそれが大衆団交の再開に支障がない限りにおいては物理的に脱出すること自体は可能であったかもしれないが、個々の教授達が前示外に出た教授のような特別の理由でもない限りそのような行動に出ることは教授会の一員としての職務意識上到底期待し難い状況にあったのであり、個々の教授らがこのような行動をとらなかったとしても、同教授らに対しても被告人らの所為が監禁行為であることの何らの妨げとなるものではなく、被告人らが、教授団の一丸となっての脱出行動に対しその都度これを実力で阻止している以上の事実関係からみて被告人らに監禁罪の成立は否定し難く、この点に関する弁護人の主張も失当である。

なお弁護人は、吉村学長が一六日午後四時頃に三宅教授に託して中村(文)教授に届けたメモにおいて、当時の講堂内の状況につき、教授団が次々と倒れ、入院者が相次ぎ、教授団やハンスト中の学生の神経も昂ぶり、怒号が飛び交い、地獄の様相を呈しており、人命に係る事態も発生している旨述べ、更に当公判廷に於ても同旨の供述をしていることに対し講堂内には教授側、青医連側双方の代表から構成される医師団が結成されていたこと、一五日正午以降外部に出た五名の教授が自発的に講堂内に戻っていること、その後の三階会議室における大衆団交では教授団側は疲労も見せず積極的に議論していること等種々の事由を挙げて右吉村供述は措信できず、かえって講堂内では時々笑い声が起こり和やかな雰囲気であったとしてこのことを教授団の滞留が自発的であったことの一つの根拠とするのであるが、仮に講堂内の状況が吉村学長が供述する程に殺気立ったものではなかったとしても一二日以来の泊まり込みで年配者の多い教授達が極度に疲労していたであろうことは容易に推認し得るところであり、現に一六日午後一一時四〇分頃吉村学長が、一七日午前一時四〇分頃谷教授が、午前二時頃藤田教授が、午前四時二〇分頃藤喜教授が、午前六時頃能勢教授が、午前七時一五分頃佐野学生部長が、午前七時三〇分頃増田病院長がそれぞれ血圧低下、疲労等で次々と倒れているのであって、弁護人主張のような和やかな雰囲気であったなどとは到底認められず、又、外出した教授達が講堂内に戻っているのも、教授会の一員として、自分一人勝手な行動をとるわけにいかないという責任感の発露に他ならなかったわけで、弁護人所論の如く教授らの滞留が自発的であったとは到底認められない。

そして、更に弁護人は三階会議室における滞留についても、同所における交渉内容が助講団の斡旋案の内容どおりであったこと、従って交渉が長時間に及んだのはむしろ増田病院長ら教授ら側に責任があるとしてそれが監禁に該らないと強く主張するのであるが、成程教授らは助講団の前記のような申し入れがあったために三階会議室へ移動したことは認められるものの教授らが右斡旋案をそのまま認めなければならないような理由は何らなく、被告人らとしてもこれを機にかねて主張の大衆団交を認めさせ、教授らが中途で退出しようとすればいつでも強制力をもって妨害する意図をもって交渉に応じさせていることは、前記交渉の内容とその際の同会議室内における教授側と学生側の位置関係(教授らの退出を阻止するに最も容易な位置関係にあること)並びに一七日午前四時三〇分頃の教授らの脱出行為に対する被告人らの阻止行為等の諸事実に照らし明らかであり、弁護人のこの点に関する主張も理由がない。

3  次に、被告人らは本件監禁行為は教授会側が一たん三階会議室における大衆団交再開を約束しておきながら、一方的にこれを破り講堂内にたてこもったので、右約束履行のためなした、その目的において全く正当なものであり、態様においても監禁罪を成立せしめるほどの違法性を備えていないと主張するが、元来大学当局が学生との間で種々話し合いの機会を持ち、その意見要望を適宜大学の教育、行政面に反映させていくことそれ自体は望ましいこと勿論であるが、しかしそうだからといって学生が大学当局に対し大学の管理、運営や学内における勉学、研究の条件等につき交渉を要求した場合、大学当局がこれに応じなければならないという法的根拠は存せず、まして学生側が主張するような方式の大衆団交に応じなければならないとするような根拠は全くないのであって、学生側が大学当局に交渉ないし話し合いを要求するにしても、その目的、内容の正当性の如何を問わず、その手段方法には自ずから限度があり、暴力を用いたり或いは威圧的言動に出る等の強制力を使用することは厳に控えるべきで場合により刑事上の制裁を受けることがあるのは当然のことといわなければならない。

然るところ成程前記のとおり二月一一日午前八時頃被告人星野が「二五時間休憩しよう。明日朝午前九時ここで会おう。」と提案したのに際し、吉村学長はじめ教授側が、何らの反論を加えないまま解散したことは、そこでの団交再開を約束したと受取られても止むを得ない面があり、それにも拘らず、学生側に事前の連絡もなく、再開の時刻寸前になって学生側に場所変更を通告し、一方的に講堂内にたてこもったように見える教授団側の姿勢は、学生の教授会不信を一層助長し、紛争を更にこじらせる原因となったものとしてやや配慮を欠いた面があるといわざるを得ないが、もともと二月一〇日午後三時から一一日朝八時まで及んだ前記大衆団交は前記のように学生側が三階会議室において開催されていた教授会に乱入し、引続き教授会の意向を無視して強行されたものであり、教授会としては既に一月三一日に大衆団交を拒否する旨の見解を明らかにしていたのであって、従って教授会乱入後の応酬の幕切れが前記のとおり三階会議室での団交再開を約束したかの如く受け取られる余地があったとはいえ、その後教授側がそのときの通算一七時間に及ぶ大衆団交の精神的肉体的苦痛、更にはそのときの討議内容の全学的性格(臨床研究棟建築案白紙撤回問題という全学的問題を含んでいた)から会場を広い講堂に移し全学集会を開催しようとしたことにも尤もな面があり、これを教授側の一方的な背信行為とまでいえないことは当然であって(この点に関し、弁護人は右全学集会の試みは学生の正当な要求を圧殺する目的をもっていたと強く非難するのであるが、臨床研究棟建築案問題のような全学的問題につき全学集会を開こうとすることは至極尤もなことであり、弁護人の右のような主張は、学生のみを大学内において他の団体に比し特別の地位に置こうとするものであって到底賛同できない。)、被告人ら学生側があくまで三階会議室における大衆団交を固執して教授側を講堂内に閉じこめたことについては、その動機において理解の余地がないとはいえないまでも、目的が正当であったとは到底認め難いし、態様においても一五日正午から一七日午前七時三〇分頃までの間教授団を講堂内及び三階会議室内に閉じ込めているのであって、同所為が社会通念上放任し得る行為の範囲を逸脱し、監禁罪を構成することは明白であり、被告人らの前記主張は到底採用し難い。

なお、弁護人は本件監禁罪につき、起訴状の記載では訴因が不特定であり、かつ予断を抱かせるような余事記載があるという理由で公訴棄却の申立をしているが、起訴状の記載(第六回公判における訴因変更後のもの)のみからではそのように判断し難く、結局右申立は理由がない。

二  次いで弁護人は判示第二の事実につき、被告人垣内、同星野の行為は被害者増田の身体の自由、行動を奪ったとは到底評価し得ないから同被告人らは無罪である旨主張している。

然しながら前掲証拠によると、二月二六日午後二時半ころ、増田病院長は、その前から助手副手団から出されていた大学改革要求に対する大学管理職会議の回答を同団の福間委員長に手渡すべく(同委員長はそのとき大学構内の理髪屋に行っていた。)大学付属病院内事務部長室北側出入口より廊下に出たところ、そこに居合わせた被告人垣内、同星野を含む学生二、三〇名に取り囲まれ、右被告人両名は、同病院長の両腕を抱えこむようにしてつかんだ上、大学当局側が大学紛争に関する大学側の見解を訴えた印刷物を学生宛に直接郵送したことを非難し、この責任を追求するとして、同病院長を同所から約七五メートル離れた大学本館ポーチ前まで連行し、(この間同病院長は両足をふんばって連行されまいと抵抗したが、他の一名の学生に背中を押されて被告人らの力の方が強く抗すべくもなかった。)そこにおいて約一〇〇名位の学生が作っていた輪の中の椅子に同病院長を座らせ、被告人星野において同病院長の責任を追求したが、同病院長は一切質問には答えなかったため、約一時間位の後帰室を許されたことが認められ、右事実によれば、右附属病院事務部長室前より本館ポーチ前までの増田病院長の連行は明らかに同病院長の意向を無視して無理矢理集会の輪の中に入れようと被告人ら両名らの実力により行われたもので、その目的が管理者たる病院長との話し合いを求めるものであり、場所的にも約七五メートルの移動距離にすぎず、時間的には数分を出でないという本件の態様並びに二月一七日以降教授会側が学生の前に姿を見せなかったという弁護人所論の本件当時の諸事情を十分考慮したとてしも、同被告人らの本件所為が社会通念上許容されている範囲を逸脱していることは明らかで、両被告人に逮捕罪の成立は否定し難く、結局弁護人の前記主張は理由がなく採用し難い。

三  弁護人は判示第三の事実につき、被告人渡辺、同垣内、同星野、同松岡の学生課侵入の目的、態様はいずれも違法のものでない、すなわち右各被告人らはそれまでの学生課の学生敵視の諸活動に対する抗議のために行ったにすぎない。成程侵入後学生らが学生課事務室を封鎖したことが認められるが、右各被告人らはその前に学生課を退去しており、右封鎖はそこに残留した他の学生らによりなされたもので、右各被告人らとは何ら関わりはない、又、侵入態様も施錠された扉を押し開いたことはあるものの、鍵そのものは壊れていず従ってそれほど激しい侵入態様でない、仮に百歩譲って学生らの侵入に違法な点があるとしても、被告人垣内、同星野に限っては、他の学生らと離れてそれより遅れて単独で入っており、右両被告人については本件侵入の刑事責任は問えない旨各主張する。然し乍ら《証拠省略》によれば、全共斗は二月下旬より三月上旬にかけて封鎖戦術をとり、本件三月一〇日より前、既に大学本館、講堂等を封鎖していたものであるところ、本件当日午前中、当時の学生自治会執行委員長松村憲太郎の声で「本日学生課弾劾集会を開くので学生は本館前に結集せよ」との放送があり、次いで同日午後四時ころ被告人星野の「本館における学生課弾劾集会」案内の放送があって、午後四時三〇分ころ右集会を終えた被告人渡辺、同星野、同松岡、同垣内ら学生四、五〇名は右学生課事務室に至り「開けろ開けろ」などと怒号し、ドアに体当りする等して、施錠してあった同室東出入口の扉を押し開けて同室内に入り(但し、被告人星野はやや遅れて右出入口から、被告人垣内は反対側の学生部長室から入った。)同室内においてそこに居合わせた府職労の組合員数名と若干の小競り合いを起こした後、被告人星野、同渡辺、同松岡らにおいて交々、学生課が入試を行ったこと、大学院入試を強行したこと等につき芦田学生課長(当時)を追求し次いで五時すぎころ、被告人渡辺においてマイクで「これから学生課の事務を停止する」旨述べ、芦生学生課長ら学生課職員全員の退去を求めたので、同課長らは止むなくその頃退室したが、その後直ちにそこにいた学生らにより学生課出入口は机やロッカー等でバリケード封鎖されたこと、が認められ、以上の事実に照らすと、被告人ら学生が学生課へ入ったのは、その時期、侵入口が多少異なるにせよ、いずれも当初から封鎖目的であったとみざるを得ず、弁護人所論のように、本件各被告人らが、右封鎖活動開始前に学生課を退去していたとしても本件被告人らに建造物侵入罪の刑責の免かれないことは明らかでこの点に関する弁護人の各主張も理由がない。

四  弁護人は判示第四の事実に関し、進学係長鞆岡勇らは、以前から分校事務室の封鎖のあることを予想して三月一六日までに重要書類を全て持ち出し、本件当日の一七日からは通常業務は右事務室内では行わず、別の化学教室で行っており、従って被告人垣内、同松岡らが押しかけたときは既に、大学職員らにおいて右事務室での通常業務を一方的に放棄していたから、右被告人らに業務妨害罪は成立しないし、仮に鞆岡勇らが何らかの業務に従事していたとしても、本件三月一七日午後三時五〇分当時右鞆岡は雑誌を読んでいたにとどまり、他の職員も席を離れて室内に立っていたにすぎず、右被告人らに業務妨害の犯意がない旨主張する。

然しながら、鞆岡らが学生の封鎖を慮り、重要書類を分校事務室から別の場所に移したからといって直ちに同人らが右事務室における通常業務を放棄していたといえないことは当然であって、右鞆岡ら事務職員が重要書類を他に移した上学生らの動きの様子を見るため右事務室に待機したことはそのような封鎖の予想される状況下で一時的に止むを得ずとられた措置にすぎず、分校事務室内での執務体制は依然として継続していたものと見るべく、これを前判示のとおりのようなバリケード封鎖することにより執務不能の状態にする場合、同所為が業務妨害罪を構成すること明らかであり、以上のことは、被告人垣内、同松岡らにも社会常識上当然認識し得ることであって、右各被告人らに業務妨害罪の犯意がなかったなどということは到底認め得ず、この点の弁護人の右主張も理由がない。

五  弁護人は判示第五の事実に関し、被告人平田、同木野村、同岡本らの学生が吉村学長との面会、話し合いを求めて病院待合室に座り込んだのは、その動機、目的において全く正当なものであり、座り込みの態様も平穏で暴力行為に及んだことは一切なく、座り込んだ面積も待合室の三分の一にも足らず、時間的にも午後二時過ぎで、待合室に患者や薬をもらう人はいなかったのであり、しかも右待合室は平素誰もが自由に出入出来る場所で、従来も労働組合等が集会等も行ったことがあること等本件座り込みの態様、動機、目的及び滞留場所の滞留時の状況等に徴すると、右各被告人等の滞留は、未だ違法な滞留とはいえず、右滞留は社会的相当行為として何ら刑事責任を問われる謂れはない旨主張する。

そこで以下検討するに、前掲各証拠によると、被告人平田、同木野村、同岡本を含む学生二、三〇人は、本件三月二八日午後二時ころから大学正門付近で、同月二一、二二日両日行われた機動隊導入と学生大量逮捕に抗議して抗議集会を開いていたものであるところ、(なお、被告人木野村は滋恵医大生で、当日医学部学生自治会連合会(医学連)の合宿が京都であり、たまたま府立医大に来て右集会に参加したものであった。)そのころ大学からの連絡を受けて急拠府会から帰校した吉村学長が病院内に入ったのを発見するや、直ちに同病院待合室内に入り、事務部長室前付近で交々吉村学長に対し機動隊導入等の措置につき弁明を求め、吉村学長がこれを拒絶して事務部長室に入るやこれを追って同室前付近に至り、入室を阻止しようとした数名の職員との間に若干の小競り合いを起こした後、二、三〇名全員が右待合室東側に座り込み、一方吉村学長は、三島事務局長とともに午後三時頃から右座り込み学生にハンドマイクを使用して退去要求を繰り返したが、学生らはこれに応じなかったため、その頃吉村学長は機動隊の出動を要請し、午後三時四〇分ころ機動隊によって同所に座り込んでいた学生の内右各被告人らを含む約二〇名が不退去罪の現行犯人として逮捕されたこと、本件三名の被告人らを含めて座り込んだ学生の内相当多数の者がヘルメットをかぶりタオルで覆面するといういわゆるデモスタイルであり、被告人木野村は前から二、三列目に座り込んでいただけであったが、被告人平田、同岡本は交互にハンドマイクで「座り込みを貫徹しよう。」などとアジ演説を繰り返し、学生らが座り込んでいた間は待合室内は、相当騒然とした状況にあったこと、が各認められる。ところで、三月二一、二二日の機動隊導入、両日合わせて四七名の学生大量逮捕ということが学生に強い衝撃を与え、しかもこれが前記監禁事件以降一度も学生と教授側との話し合いの機会が待たれないまま抜き打ち的になされたこともあって、本件被告人ら学生が前記抗議集会中吉村学長の姿を発見したのを機会にその弁明を求めようとしたことは、その動機において酌むべきものなしとしないにしても右に認定したとおり被告人らは、およそ静謐を要求される病院内(このことは病院のいかなる場所においても異ならず、待合室も例外ではない。)において、吉村学長が既に面会拒絶の意思表示を明確にしているにも拘らず、ヘルメットにタオルというデモスタイルで衆をたのみあくまで同学長の弁明を要求するとして座り込み、同学長らの度重なる退去命令にも従わず、剰えハンドマイクで代る代る(被告人木野村を除く)アジ演説をなしたもので、これら被告人らの行為態様に照らすと、それが病院内の静謐を著しく阻害するものがあったといわざるを得ず、本件滞留が一時間内外でそれほど長時間にわたっていないことや当時、午後二時過ぎで、待合室内には外来患者や薬をとりに来る一般の人は居合わさず、待合室は以前職員組合の集会にも使われたことがあったこと等弁護人所論の諸事情を十分考慮にいれても、右被告人らの所為が社会通念上許容し得る範囲を逸脱していることは明白であり、本件滞留が不退去罪を構成することは明らかであるから、この点の弁護人の各主張も理由がない。

六  弁護人は判示第六の一の事実につき、本件退去命令は三月二二日付学長告示で実施された「有給職員以外の職員及び学生の大学構内全面的立入禁止措置」が、七月二三日一部解除され、午前七時から午後七時までの間は、右立入禁止措置が解かれたことに伴ない、午後七時以降の立入禁止措置を実施するために発動されたものであるが、右立入禁止措置は、三月二二日併せて行われた同日から八月末日までの休校措置と不可分一体のものであるところ、右休校措置は、全く法的根拠がないにも拘らず、大学当局により一方的に実施されたものであり(学長による大学紛争収拾のための教育及び研究の全部又は一部の機能停止は、昭和四四年八月七日公布、同一七日施行法律第七〇号大学の運営に関する臨時措置法七条一項によりはじめて認められたと解すべきである。)、違法であること明らかである。従って、右退去命令自体が違法である。又、仮に一般的な財産管理権の発動として、右退去命令が発動されたとしても、学生らは右二号館地下に学生自治会ボックス等を有し、施設を利用する権限を有していたのだから、単に右玄関付近に滞留すること自体を違法視することはできない旨主張する。

然しながら、国公立大学は、憲法二三条の精神に則り大幅な自律権が与えられており、大学の紛争の収拾にあたっても、大学自体の自主的判断が十分尊重されなければならず、大学は実定法上明記されているかどうかを問わず、必要かつ合理的な手段を適宜自主的に用い、大学紛争の収拾、解決に当り得ることはいうまでもないところ、本件休校措置がとられた三月二二日に至るまでの学内の状況は、前記のとおり二月一〇日に全学無期限ストライキが決議され、以後授業は全く行われず、二月下旬頃より大学本館、講堂、学生課、分校事務室、複数の教授室が次々と封鎖され、大学の管理機能が著しく阻害されると共に、正常な教育研究活動が行い得ない状況にあり、こうした状況の打開解決の方法として大学当局が教育研究秩序回復のためその自主的判断により三月二二日より八月末までの右休校措置をとったことが認められる。成程弁護人主張のように本件当時大学紛争収拾を事由とする休校措置は法令上明確を欠いていたとはいうものの、これを禁止した規定も見当らず、かえって学校教育法施行規則四八条には、非常変災その他急迫の事情あるときは、臨時に授業を停止できる旨の規定があり(右規定は法文上大学には準用されていないが、自治権、自律権を保障されている大学としては、そのような場合には当然高校以下の諸学校の場合に準じ、臨時休業をなし得ると解せられる。)、本件のような大学紛争により大学の管理並びに教育、研究機能が著しく阻害されている場合のその収拾のための休校措置は、右施行規則四八条に準じた措置として当然許されると解すべきである(従って前記大学の運営に関する臨時措置法七条一項は、大学当局が大学紛争収拾のため臨時休業し得ることを確認的に明文化し、その期間の長期を定めたにすぎないと解すべきである。)。従って、この点に関する弁護人の右主張は理由がない。

然るところ、大学当局は右休校措置に伴い当初は有給職員以外の職員及び学生の大学構内立入を全面的に禁止したのであるが、(右立入禁止措置は休校に伴う一般的な財産管理権の発動として合法的なものである。)七月二三日一部解除され、午前七時から午後七時までの間は右立入禁止措置が解かれ、本件事件当日の同月二四日に至ったもので、大学施設の管理権者たる丸本晋学長代行の命を受けた学生部長代行藤田晢也がなした退去命令に何ら違法の廉はなく、学生が大学施設の利用権を有するといっても、それは無制限なものではあり得ず、大学管理上の規律に従わなければならないことは当然であって、被告人星野は他十数名の学生と共に、右退去命令に従わなかったばかりか、後記のように藤田晢也ら大学職員が二号館出入口の扉を閉めようとした際、これを閉めさせまいとして大学職員と押し合い、二名の職員には殴ったり蹴ったりの暴行を加え、結局同館玄関付近に同日午後七時一〇分ころから同八時ころまでの間滞留を続けていたのであって、同被告人に建造物不退去罪が成立することは明らかで、この点の弁護人の主張も理由がない。

七  弁護人は判示第六の二の事実につき、藤田学生部長代行らの職務は法令に根拠のない休校措置を伴う学内立入禁止措置を実施するための学生の排除活動でその点で既に違法であるばかりか、スクラムを組んで学生らの身体を直接押し出すという実力を用いているという点でも違法であり、更に本件証拠上被告人星野の暴行行為は認められないから、いずれにせよ被告人星野に本件公務執行妨害罪は成立しないと主張する。

然しながら、休校措置及びそれに伴う学内立入禁止措置が適法であることは前述のとおりであってこの点の弁護人の主張は理由がなく、又前掲各証拠によると、本件当日七月二四日午後七時過ぎころ、藤田晢也学生部長代行は学生が二号館玄関付近に滞留しているという連絡を受けて、これを退去さすべく竹岡助教授、北村講師、片山学生課長、沢山学生課主査らと共に二号館玄関口に赴いた際、同所に被告人星野を含む十数名のヘルメットタオル姿の学生がおり(二号館建物内にも数名の学生がいた)、藤田代行は、まず口頭で一〇回位退去命令を発したが、右学生らはこれに従わなかったため、同代行は一緒に来た職員及び二号館三階より下りてきた上田潔助教授、今村講師らと共に出入口ガラス扉を内側から閉めようとしたところ、右学生らは扉を閉めさせまいとして扉を外側から押しここに職員と学生らとの押し合いとなり、右押し合いは約一〇分間位続いたが、いったんは扉はほぼ閉まりかけたものの学生側の力により徐々に開いて結局扉を閉めることができなかったこと、そしてその過程において被告人星野は沢山隆重学生課主査の頭をヘルメットで一回殴り、上田潔助教授の腹部を一回足蹴りしたことが各認められるところ、右に述べた押し合い以上に、大学職員が中にいた学生をつかみ出したり押し出したりというような事実は見出し難く、右認定程度の実力行使は財産管理権者たる学長代行の補助職員として財産管理権行使の委任を受けた大学職員としては当然許容される範囲内のものであって、従って前記藤田晢也らの公務の執行に何ら違法の廉はなく、被告人星野には公務執行妨害罪が成立すること明白であってこの点の弁護人主張も失当である。(なお、検察官は、被告人星野が藤田晢也に対しても手拳で殴り、足蹴りする等の暴行を加え同人の公務の執行を妨害した旨主張するが、右事実を認めるに足る証拠はない。しかし、右はもともと判示第六の二の罪と別罪を構成するものではない関係にあるからこれについて同被告人には特に主文で無罪の言渡しをしない。)

八  判示第七の公務執行妨害、傷害罪について

1  弁護人は判示第七の事実につき(1)本件当日(八月六日)の大学職員の警備は全く違法な休校措置の実施手段としてなされているものでその点で既に違法であるうえ、(2)病院内は立入禁止の対象となっていなかったものであるところ、学生側は大学側の前記違法なロックアウト体制に抗議し、そのための集会を行おうとし、右病院内を単に集会場移動のための通路として使用したにすぎないのであり、学生側はシュプレヒコールを唱えたり、ジグザグしたりスクラムを組んだりもせず、ヘルメットも着用せずプラカードもなく整然と行進しており、このように本来学生が自由に立ち入る権利のあるところについて、何の必要性もないのに全面的に禁止しようとした大学側の措置は財産管理権の濫用であり、従ってそれに基づく大学職員の警備は違法である。(3)更に財産管理にあたる職員としては、本来退去命令や立入禁止に従わない者に口頭による説得しか為し得ないものであるところ、本件当日の警備実施状況は、スクラムを組み、ピケを張り、病院玄関(以下、新玄関という。)前では手を前に水平に突き出し、手の平を拡げる等して立入を阻止し、エレベーター前では職員が学生を入ってきた口に戻そうとしたことも窺え、右制止行為の中で殴ったり蹴ったりした者、看護学生の中に割り込み押したり蹴ったりした者、デモ隊の隊列にビンを投げる者もいて、明らかに大学職員が本来的に有する権限外の行為をなしている点でも違法である、(4)又本件において被告人らの共謀を窺わせる証拠は全くなく、現場で生じた混乱はむしろ大学職員の暴行々為に端を発し、これに一部学生が挑発されたにすぎず、決して組織的なものでない旨各主張する。

2  然しながら、本件病院の警備措置は一般の財産管理権に基づくものであって、弁護人所論の休校措置とは直接関係を有しないから(1)の主張が失当であることは明らかであるし、前掲証拠によると被告人ら学生約八〇名は本件当日の八月六日午後一時半頃から構内で集会を開いたのち、本館や講堂周辺をぐるりとデモ行進したのち、旧臨床研究棟玄関(以下、旧玄関という。)に至り、そこから病院待合室を通って病院内に入ろうとしているのであって、このようなデモ隊の侵入を財産管理権者からその旨指令を受けた大学職員が阻止し得るのは当然であって、(2)の主張も理由がない。成程本件証拠によると、弁護人所論の如く、被告人らデモ隊はシュプレヒコールもジグザグ行進もせずスクラムも組まずヘルメットの着用もなく病院待合室を通ったのも病院玄関前で集会を行うため旧玄関と新玄関の間を通り道としたことが窺われるが、そのこと故に被告人らデモ隊が病院内を通行することに正当性が付与されるわけではなく、このようなデモ行進の通過を大学職員が阻止すること自体に何ら財産管理権濫用云々の問題を生じないことは自明の理である。

次いで(3)の主張について検討するに、本件公務執行妨害罪の訴因における妨害行為の対象たる公務の執行は、デモ隊の病院侵入を防止しようという大学職員の警備行動全体であり、個々の職員の職務行為を個別的にとらえたものではないと解されるところ、成程本件証拠によると、デモ隊が待合室内に入った際一部若い現業部門の職員達が学生等と接触し、もみ合ったりした際興奮の余りこれに対抗してやや粗暴な行動に出たことが窺い得ないではないが、全体的には大半の大学職員は単に出入口に並んで立ち、或いは手を広げて制止するという当然許容される範囲の行動しかとっておらず、全体としての警備活動は適法であったと認められ、右適法性が前記一部職員の行きすぎた振舞の一齣によって左右されるとは考えられず、その他本件全証拠を詳しく検討しても、本件警備活動の職務の執行を全体として違法と評価しなければならないほどの違法、不当な大学職員の行為は何ら見出し得ないから、本件公務は公務執行妨害罪によって保護される職務に十分値し、本件(3)の主張も理由がない。

すすんで本件被告人らの共謀の有無、その時期について考察するに検察官主張のような事前共謀の事実は本件証拠上認め難いものの(検察官は本件当日発行された全共斗ニュースNO一〇六、一〇七号の記載内容をもって事前共謀の有力な証拠とするが、右記載内容のみからではそう断定し難い。)、前掲証拠によると、前判示のとおり全共斗においては八月六日午後から決起集会を開いたのであるが、当日大学当局側は午前中管理職会議を開き、三班に分れて基礎の建物については学生部長代行、図書館長代行が、病院については病院長代行が、本館については事務局長が各責任者となり職員を指示してデモ隊の侵入を制止、排除する職務に従事することになったこと、本件被告人ら全共斗傘下の学生等約八〇名(内女子二〇名位)は同日午後二時四〇分ころから集会を終え、学内デモ行進に移り、被告人渡辺、同垣内らが豊岡建治らと共に指揮し、本館、講堂周辺を行進したのち、旧玄関から病院待合室内に入り(このとき旧玄関前において徳田病院長代行らが手を広げて「デモ隊は病院内に入るな。」と大声で叫び侵入を制止したが、デモ隊は構わず肩で押す等して押し進んだ。)、そのまま新玄関を出、その後再び新玄関北側出入口から病院内に入ろうとしたが、このとき病院職員が手を広げたり右出入口のガラス扉を内側から閉める等制止したためデモ隊の先頭集団と小競り合いとなり、その際山根林市、鈴木忠夫、近藤勲三名の職員が、被告人渡辺、同垣内らデモ隊の先頭グループにいた数名の学生に顔面を殴打され足蹴りされるなどの暴行を受けたこと、その後デモ隊が待合室内に入りエレベーター付近まで行ったところ、その付近にいた一部大学職員がデモ隊を新玄関南側出入口の方へ押し戻そうとしたためデモ隊と職員の間で激しいもみ合いとなり、デモ隊の一部は旧玄関方向へ一部は新玄関南側出入口から外に出たが、その際今西馨、村上神一郎が被告人渡辺、同垣内他数名の者から顔面を殴打され、足蹴りされる等の暴行を受け、森清も氏名不詳の二、三名のデモ隊員により右眼を殴打され、腹や胸を蹴られるなどの暴行を受けたこと、次いで新玄関前へ出たデモ隊の一部は比較的整然とした隊列で同玄関北側出入口から待合室内へ入り(その頃病院側の連絡を受けて三島事務局長ら大学事務局の職員が応援に駆けつけた。)、エレベーター横を通って旧玄関外に出たが、この後を追うようにして三島事務局長ら大学側職員数十名は旧玄関に至り、デモ隊の病院内再突入防止のため、入口付近に三列位に横に並んでデモ隊の様子を見ていたところ、デモ隊はいったん北向きに隊列を整えた後、いきなり垣内の“かかれ”という号令と共に被告人渡辺、同垣内、同松岡、同穴川、同松村を含む先頭の二〇名位の者が数名ずつ一組となって大学側職員に襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えたこと、以上の事実が認められる。ところで本件一連の暴行は右にみたように病院内外のデモ行進の過程において、いずれもその病院内の侵入制止のための警備にあたっていた大学職員に対して時間的場所的にも接着して行われたもので、現場共謀の成立は明らかであり、しかも被告人らにとって大学の建物内や病院内で集団デモ行進をすれば、職員により制止がなされることは当然予想し得たというべく、本件はデモ実施における一連の行為で被告人ら(但し被告人岩元を除く。)は現に相呼応し共同して大学職員に直接的に暴行を加えている以上、その時間、場所、暴行を加えた相手方に多少の差異が認められるにしても、本件公務執行妨害行為の過程において行われた傷害全部について刑責が問われることは当然でこの点の弁護人の主張も失当たること明らかである。

3  被告人岩元無罪の理由

被告人岩元則幸に対する本件公訴事実の要旨は、同被告人が判示第七の公務執行妨害・傷害行為に共同加功したものである、というにある。

ところで、集団行進の際に行われた暴行・行為につき右集団行進に参加していた者が共謀してこれに加担したものと認められるためには、事前共謀の認められる場合はともかく、いわゆる現場共謀の場合にあっては、当該現場における右参加者の個別具体的行動中に、他の暴行行為者らと互いに相呼応し協力して暴行を加えようとする意思の発現を認めるに足るものがなければならないと解せられるところ(東京高裁昭和三二年七月二〇日第一〇刑事部判決、高等裁判所刑事判例集一〇巻八号六三三頁参照。)本件において被告人岩元が前記デモ行進に参加していた事実は認められるものの、事前共謀があったことを窺わせるに足る証拠はなく現場における被告人岩元の行動中に右意思の発現があったと認めるに足る証拠もない。成程第六五回公判調書中証人鈴木忠夫の供述部分、鈴木忠夫の検面調書によると、大学職員である同人は、病院待合室エレベーター付近において被告人岩元が倒れている森清の腹を一回蹴るのを目撃した旨の供述をしている。しかしながら同人の供述を検討するには同人は病院玄関付近において警備中まず新玄関北側出入口付近で被告人垣内、同渡辺らに暴行を受けたため一たん地下の自分の職場に戻り、応急手当を受けた後、再び一階待合室に上ってきたところ、たまたま森清が暴行されるのを見たというのであり、最初からその状況を目撃していたわけでなく、デモ隊後方にいた七、八人の内の一人の男が右森清を蹴る一瞬を見たというにすぎず、その目撃した位置も一階ホールの中央付近で、森が暴行を受けたというエレベーター付近との間には相当の間隙があり、しかもその間には、デモ隊と職員の間で混乱状態が生じていたためかなりの人数が介在していたと窺われる上、同人は従前から被告人岩元の顔と名前を知っていたわけでなく、後日写真で森を蹴った男を被告人岩元であると確認したにすぎないこと、更に同人は被告人岩元は森を蹴った後デモ隊の最後部についてそのまま臨床砥究棟玄関の方向へ行った旨供述しているところ、被告人岩元自身は、当公判廷においてエレベーター付近での混乱状態の後、一たん病院新玄関南側出入口から病院玄関前広場に出、再び隊列を組み直して病院新玄関北側出入口から待合室へ入った旨相当具体的詳細な供述をしているのであって、以上の点から前記鈴木供述の信用性には多分に疑問があり、右供述のみをもってして、被告人岩元が森清に暴行を加えたとは必ずしも断じ難い。そして、その他に被告人岩元が単独で或いは他のデモ隊員と相呼応し協力して大学職員に暴行を加えようとしたとの事実を認めるに足る証拠はなく、結局被告人岩元については犯罪の証明がないことに帰するので刑訴法三三六条に則り、同被告人に対して無罪の言渡をする。

(法令の適用)

一  罰条

1  判示第一の所為(被告人渡辺、同垣内、同奥宮、同松岡、同星野)

刑法六〇条、二二〇条一項

2  判示第二の所為(被告人垣内、同星野)

刑法六〇条、二二〇条一項

3  判示第三の所為(被告人渡辺、同垣内、同松岡、同星野)

刑法六〇条、一三〇条前段、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法(以下、旧罰臨法という。)三条一項一号(刑法六条、一〇条による新旧比照。以下、旧罰臨法とある場合は同様。)(各懲役刑選択)

4  判示第四の所為(被告人垣内、同松岡)

建造物侵入  刑法六〇条、一三〇条前段、旧罰臨法三条一項一号

威力業務妨害 刑法六〇条、二三四条、二三三条、旧罰臨法三条一項一号

建造物損壊  刑法六〇条、二六〇条前段

5  判示第五の所為(被告人岡本、同木野村、同平田)

刑法六〇条、一三〇条後段、旧罰臨法三条一項一号(各罰金刑選択)

6  判示第六の一の所為(被告人星野)

刑法六〇条、一三〇条後段、旧罰臨法三条一項一号(懲役刑選択)

判示第六の二の所為(被告人星野)

刑法六〇条、九五条一項

7  判示第七の所為(被告人渡辺、同垣内、同松岡、同穴川、同松村)

公務執行妨害 刑法六〇条、九五条一項

傷害  刑法六〇条、二〇四条、旧罰臨法三条一項一号

一  科刑上の一罪の処理

判示第一の所為(被告人渡辺、同垣内、同奥宮、同松岡、同星野)につき刑法五四条一項前段、一〇条(各被告人につき犯情の最も重い増田正典に対する監禁罪の刑で処断)

判示第四の所為(被告人垣内、同松岡)につき刑法五四条一項前段、一〇条(各被告人につき最も重い建造物損壊罪の刑で処断)

判示第七の所為(被告人渡辺、同垣内、同松岡、同穴川、同松村)につき刑法五四条一項前段、一〇条(各被告人につき刑期及び犯情の最も重い高山新之助に対する傷害罪の懲役刑により処断)

一  併合罪の処理(被告人渡辺、同垣内、同松岡、同星野)

各刑法四五条前段、四七条本文、一〇条(被告人渡辺、同垣内、同松岡については各最も重い判示第七の罪の刑(但し短期は判示第一の罪の刑のそれによる。)に、被告人星野については刑期及び犯情の最も重い判示第一の罪の刑にそれぞれ法定加重)

一  刑の執行猶予(被告人渡辺、同垣内、同奥宮、同松岡、同星野、同穴川、同松村)

各刑法二五条一項

一  労役場留置(被告人岡本、同木野村、同平田)

各刑法一八条(各金五〇〇円を一日に換算)

一  訴訟費用の負担(全被告人について)

刑訴法一八一条一項本文

(量刑の理由)

本件府立医大紛争は、青医連問題等全国的なものと、土地問題等府立医大特有のものとが絡んだ極めて複雑根深いものであるが、被告人らの判示各所為は、そうした本件紛争を背景とし、その一環としてなされたものであり、その紛争の過程でなされた被告人らの主張にも誠に尤もと肯ずけることも少くない反面この間の大学当局側の対応には時として場当り的と評価されても止むを得ない面があったばかりでなく、学生懇談会において学生との間で合意された事項を学長等責任者が変ることによって反故にされたり、問題によっては学生側に過剰な期待を与えかねない態度を示したうえ、その期待を結果的にせよ裏切るといったことがあったことも否定できず、もし大学側において、永らく学生の間にうっ積していた不満の原因や意義に眼を配るより一層の真摯かつ公正な態度があれば、或いはかくまで大規模な紛争の招来を防ぎ得たかもしれず、この意味において従前の大学側或いは設置者たる府の措置について一考を要する余地があり、その点、被告人ら学生側が大学側の態度を不満として判示監禁等の実力行動に出たその心情には酌むべきものがある。然しながら、自己の目的の貫徹に急なるの余り、教授らの自由を長時間にわたって束縛し、長期にわたって大学施設をバリケード封鎖して大学における教育、研究の機能を麻痺させ或いは警備実施中の大学職員に対し殴る蹴るの暴行を加えるが如き行為は、その動機、目的に右のような酌むべき事情があるにせよ、それ自体現行法秩序の上で許容されるものでないことも明白であることはもとより、被告人らの前判示のとおりの個々の行為の態様、結果からみて、その刑責は軽視することはできず、殊に判示第七の傷害の罪については被害者に与えた傷害の結果も重大であり、その態様も臨床研究棟玄関付近においては、数人一組となり一方的に年配者の多い大学職員に襲いかかっているのであって、右関係被告人らの犯情は決して軽くはない。然しながら、被告人らの判示所為がその動機において酌むべき事情のあることや、何ら私利私欲によるものでなくその大半は大学の現状を憂う心情から発したものであること、大学側の対応にも右のとおり一考の余地があったこと、更には紛争後既に一〇年を経過して被告人垣内を除くその余の被告人は医師として既に中堅的地位を占めつつあり、被告人垣内も塾教師として活動し、いずれも社会的に有用な活動に従事していること、その他被告人らに前科がないことやその年齢、性格、家族状況等諸般の事情を考慮し、主文のとおり量定した次第である。

よって主文のとおり判決する。

(裁判官 山田賢 豊田建夫 裁判長裁判官深谷眞也は退官のため署名捺印できない。裁判官 山田賢)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例